2023年02月20日

お登勢 その弐拾 初午

今年の初午は遅くも早くもない午の日で
午の日が早い年は大火が出ると言われているからお登勢にとってはひとまず安堵の初午だった
吾妻橋を渡って向島の三囲(ミメグリ)稲荷を目指して朝早くに家を出たお登勢
久しぶりの物見遊山を兼ねた初午詣りは与平の商売繁盛を願ってのことだったがそれでも
橋を渡ると人の出の賑わいに胸が浮き浮きするのを禁じ得なかった

元は田中稲荷と言われていた三囲稲荷がその名になったのは
一度廃れた神社を再興しようとして空き地を掘ったら神像が現れ
どこからともなく白い狐が三度この場所を廻ったからだと先に弥左衛門さんから教わっていた
お登勢も元来神仏の不思議を信じていたからもしや今日白狐が現れたらとにかく拝もうと心してる

それにしても参道にはお狐さんの赤い幟が立っていたり地口行灯が並んでいたり
そこへ太鼓を打ち鳴らす音が轟いたり参詣の人々が口々に喋ったりで
こんなに賑やかだったらお狐さんは絶対出て来ないだろうと思うお登勢だった
若い男女の参詣客が多いのは三囲稲荷さんで良縁に恵まれるらしいという噂のせいだろう

あたしは与平さんがいるからいいんだけどもう少しせめて三日に一度は来て欲しいと頼もうか
稲荷社が近づくにつれ人ごみも厚みを増しときどきお登勢に当ってくる人もいる
その中を足元に注意しながら一生懸命歩いていると立派な大店の主人らしい人がゆったり歩む背中に
人に押されたお登勢がどんとぶつかってしまう

驚いて振り返る立派ななりの男の人がやあこれはこれは白狐さんと笑みをこぼす
お登勢は恐縮して当ってしまってすみませんと謝るのを大きな笑みでいやいやと返す
そこへお供の番頭さんと小僧さんらしき二人が追いついてなにかございましたかと問うた
いやいやいま大きな運を授かったところですと鷹揚に答えるとそれじゃお気をつけてとその場を離れる

律儀で実直な与平とはまた一味も二味も違う大きな男のふるまいに
お登勢の心の中に小さな灯が点ったことを誰も知らずに初午詣での人々が
各々の願いや欲を持ち合わせて稲荷の社に進んで行く
願いや欲を投げ銭に託して置いて帰っていく
posted by 熟超K at 16:52| Comment(0) | 時代小説

2023年01月20日

お登勢 その壱拾九 小正月

初春だなんて言ったってちっとも暖かくなりゃしない
お登勢の口からこぼれた愚痴が四畳半の部屋にまた溜まる
大正月が過ぎて何日も経つというのに与平はこの家にまだやって来なかった
七草粥まではあちらに行ったきりでも仕方ないと分かってたけど
いくらなんでもちょっとくらい
顔を出したって罰は当たりゃしないのにとすねる気持ちが顔を出す

暮れに風邪で寝込んでいた弥右衛門さんも
去年のうちに元気になって
こんなもんだが正月飾りに混ぜたらいいよと
ちいさな七福神の絵馬をお登勢にくれた
小料理屋に奉公していた頃には
年の瀬までは大忙しで正月一日の休みが嬉しかった
それが二日からはまた眼が回るくらいの忙しさが続いて
人の笑顔や笑い声、賑々しい三河万歳、店先の門松飾りが浮き浮きさせた

今、こうしてこの小さな家で一人迎えた正月七日間の寂しさが
その上にまた一日一日と降り積もって
明日は小正月
もう本所横堀の暮れ六つの鐘が鳴った
今日もあのひとは来ないのかと涙が浮かんだとき
がたっと玄関の戸の音が
おおさぶっと言いながら与平が家に入ってきて
お登勢の遅いおそい正月がやっと今夜やって来た
posted by 熟超K at 14:02| Comment(0) | 時代小説

2022年12月10日

お登勢 その壱拾八 弥左衛門さん

師走初めの昼下がり
強い空っ風に舞い上がる砂埃を
頭に被っている手ぬぐいの端で防ぎながら
お登勢は今の与平との棲家を譲ってくれたご隠居
弥左衛門の住まう長屋に向かって急ぎ足で歩いている

建てつけの悪い障子戸を開けるこつも
最近は手が覚えていて
ちょっと上に持ち上げるようにしながら上手く開けたお登勢の目に
古びた布団にくるまってあっちを向いて寝ているご隠居の姿が飛び込んできた

「弥左衛門さん、もう八(ヤツ)の鐘が鳴りますよ。どうかなさったんですか?」と問うお登勢に
ごほん、ごほんごほんと年寄りの咳音が返事する
「あらあら、いけませんねぇ、お風邪ですか」と問いかけるもあちらを向いたまま返事がない
「上がらせてもらいますよ」と声を掛け、手早に袷羽織の埃を軽く払って畳み持って来た風呂敷包みと一緒に上り口に置き履物を脱いで寝ている弥右衛門の傍に行く

「どれお熱は」と言っておいて弥右衛門のおでこを探ると熱さが伝わってくる
お登勢は急にしゃんとした気分になってすくっと立ちあがると「まずおでこを冷やさないと」と呟くと
土間に降り、干してあった手ぬぐいを小盥(コタライ)に入れ
水瓶から移した冷や水を浸してぎゅっと絞るといそいそと弥左衛門の傍に行って額にあてる
それからちょっと布団の中に手を入れて汗のかき具合を確かめ「まだ濡れてないわ」と頷くと
また立ち上がってくどに薪を入れて火打ちと火吹き竹で手際よく火を起こし中鍋に湯を沸かす

湯が沸くと柄杓(ヒシャク)で掬った湯をおひつに残っていたご飯を別の小鍋に移したところに注いで
中鍋と入れ替えて米粥を作り始める
粥が煮えたところで弥左衛門に声を掛け壺に入っていた梅干しを添えて「さあこれ食べて」と促す
年寄りの気持ちが落ち着いた様子を見て「弥左衛門さんお薬は?」と訊き無いとわかると
与平がくれた今夜の夕餉代を確かめ「あたしちょっとお薬屋さんに行って来ます」と言うなり
袷羽織りを羽織って返事も聞かずに表に出る

橋のたもとの薬問屋で風邪に効くと評判の和中散(ワチュウサン)を買い求め
長屋に戻ると少し元気の出た弥左衛門が「お登勢さんすまねえ」と礼を言う
「いいんですよ風邪は万病の本って言うから今夜はこのお薬飲んで温かくして寝てくださいな」
そう言うと「あれもうこんなにお天道さまが薄くなって。今日は帰りますけどまた明日寄りますから」
と言い置いて帰りかけ「いやだ与平さんの頼まれもの忘れちゃって」とまた弥左衛門の枕元に座って
「今年もお世話になりました」と言うと風呂敷包みから歳暮の鰹節を取出し花のように笑った
posted by 熟超K at 16:16| Comment(0) | 時代小説

2022年11月27日

忘れてないよね…

IMG_8908 忘れてないよね.jpg

黄昏どきは寂しそう…って昔、誰かが唄ってたな
ちっちゃい自転車くん、もうじき君を連れに戻って来るさ
posted by 熟超K at 13:57| Comment(0) | 写真のつぶやき

2022年11月06日

お登勢 その壱七 夕焼け

どきっとするような夕焼けの紅が障子を染めている
洗濯物を仕舞い込むときには青空を長い雲が幾条も渡っていたけど
こうして障子を開けて眺めるとずっと太い雲になっていてそれが紅い炎のよう

昨日までの十月は神無月と言うんだぞって
日の本中の神様が出雲の国に出掛けちまってお留守なんだって
与平さんが話してくれたけど

どちみち神様とか仏様がいらしたって
あたしは死ぬまで出会うことなんてないんだろうねって言ったら
そりゃそうだって笑ってた

神社やお寺さんにお参りすれば逢えるんだよって言ってたおとしさんも
そんなに本気で信じちゃいないんだけどねって真顔で言ってた

与平さんのお使いでときどき訪ねるようになった長屋のご隠居さんも
神様や仏様はお宮さんやお寺さんのためにだけ働いてるんだってこぼしてた

それでもこんなにお空が紅く染まってお庭の小さい紅葉も赤くなるのを見ると
神様とかが大火のことを皆忘れないように戒めてるんじゃないかって思う

そう言えば今日からはいよいよ霜月だわ
芝居の顔見世の話を八百屋のお松さんが話してたけど
お芝居見物なんて行ける人がうらやましいわよってあたしもおんなじ気持ち

そんなこと考えてたらもう障子は暗くなってる
夜が早くなったなあ

posted by 熟超K at 00:24| Comment(0) | 時代小説

2022年10月11日

お登勢 その拾六 針仕事


小さな庭の柿の木に留まったヒヨドリが鳴いている

痛っ
指先にぷつっと赤い球が浮いてきた

お登勢は針仕事が苦手だ
物心がつく頃にはもうおとっあんは居ず貧しい暮らしで
娘に針仕事を教える余裕のなかったおっかさんがごめんねと小さく言っていた

随分寒くなってもなかなか綿入れが用意できず
寒くていつも鼻水が垂れていた小さいお登勢

夏の単衣をどうにか工夫して袷にすることまでは出来たが
冬に備える綿入れが難しかった

だからいつも
お登勢の子ども時分の思い出は寒さをしのいで春を待っていた記憶ばかり

それが今はこうして
与平の着る半纏に綿を入れるための針仕事ができる

だからあたしは家のことで苦手なんて言ってちゃいけないんだよねと
針を髪に滑らせながらお登勢は心の中のおっかさんに話しかける
posted by 熟超K at 16:45| Comment(0) | 時代小説