〜走馬灯〜
あぶっ…と思わず出た声を聴いたのが、音を聞いた最後になった
体が宙に浮いて、踏ん張るものが無くなったとき、心が自由になった
空の青の中を、白い細い雲が幾筋も流れていて、子どもの頃見たことがあるなぁ、と誰かの呟く声がした
若い頃なら、屋根から落ちても、体勢を変えて大怪我しなかったのに、今はそうする気も失せて
落ちて行く男の脳裏に、よく泣き、しょちゅう怒って、ときどき笑っていた女の顔が浮かんだが、すぐに消え
がっしりした男の藍色の印半纏の背中が甦り、それがおっとうだと、くっきり分かっていた
肩車と、祭りの縁日で握った掌の厚みと、たま〜に擦りつけてくる髭の痛さが、おっとうの全部だった
夏のある日、大声で怒鳴り合った後、姿を消して、そのまま十年経って、おっかあもこの世からいなくなった
独りで暮らしていた男が、若い女と知り合い、子どもが出来てからの賑やかな日々のその果てに
走り回れるようになったせがれが、喋った声の記憶だけを残して、近くの川で溺れて死んだ
それで心が虚ろになった女と暮らした季節が、二回り半を数えた寒い朝、女は涙を溜めた顔のまま死んでいた
近所と仕事仲間が出してくれた弔いの後、独りの夜を重ねて、世間が正月を迎えるのを見て男の心は凍った
酒と博打で身を持ち崩し、誰にも愛想をつかされて、自分の心も荒み切り、住む場所を離れて旅に流れた
そんな旅路の果てに、やっと気の合う仲間と住い、そのうち出逢った女も懐き、三人三様のまま日々を送り
大事なものが見え始め、大切な身内の匂いに包まれて、そろそろ五十の声もする今
俺はまた皆から離れていくんだなぁ、と、それでも、いっぱし幸せだったと、思っているうち地べたが迫った
〜通夜〜
仕事仲間が戸板に乗せた、年上男の硬くなり始めた体を運び込んで来たのを、女は静かに泣きながら見ていた
若い男のところに、知らせに行ってくださいと、やっと声が出たのは、通夜の支度が出来た頃
知らせを受けた若い男が、わけを話してお店から、戻って来たときには、通夜の客も去った静かな三人の家
年上男の魂の無い顔を見て、同じ魂の抜けた女の顔を見て、若い男は己がしっかりせねばならぬと心した
すっかり体も心も冷え切った女を寝かせ、静かになった部屋で静かな死人と二人になって
まだ残っていた徳利の酒を、二つの茶碗にそっと注いで、年上男にぼそぼそ話しかける
あんたはもうあっちに逝っちまったんだなぁ、こっちは俺が踏ん張るから、心安らかに往生してくれや
言ってるうちに、心が乱れて、涙と鼻汁がぽたぽた落ちる
酒も無くなった頃、押さえていた酔いが回って、若い男は初冬の夜の中にそっと出て、長い小便を土手に放つ
寒々した半月が、辺りを仄明るく照らし、三人の小さな家の輪郭を浮かび上がらせる
ふいに嗚咽が口から漏れ出し、兄貴ぃ兄貴ぃ、どうして逝っちまったんだよぉーと、虚しい声が出た
やがて大分、心が落ち着き、戻った家の寝屋の布団に、女が声無く座っているのが見えた
〜檜の柱〜
年上男を家のそばに葬って、墓の代わりに年上男が大事に取っていた、檜の柱を若い男が建てた
柱の表に男の名を書こうとして、知らないことに気が付いた
女も知らない、あたしゃあんたと呼んでたし、大工のお仲間は、兄いや、若棟梁、親方としか呼んでなかった
誰も知らない名前を書くのに、苦心して吾十の墓と墨で書いたのは、お店で字を覚えていた若い男だった
年上男が元気だったころ、酒を飲んで語っていたのは、人は五十年生きられるそうだ
俺ぁ、五十年よりもちっと生きて、あいつとお前がこの家を継いで、充分楽しく生きられるようにするんだ
そんなことを酔って言いながら、昔のお殿様が、人生は五十年、って言ってたんだぞ、と笑うのだった
五十前に死んでしまった年上男の名が、五十じゃ可笑しいと思うから、吾十にしたんだと女に語った
これで立派になったねぇ、と女は呟き、微かな笑みを若い男に投げかけた
そんな女を見て、若い男の心がざわめいてしまう
自分の望みをしっかり抑え込んだ若い男と、魂の半分しか残っていない女と二人、それから幾晩か過ぎ
やがて、今まで通り、若い男は九日はお店に出かけ、一夜だけ家に戻る暮らしがまた、始まった
〜二つの櫛〜
二人の暮らしが、幾つも季節を重ね、暑すぎた夏がやっと終わった頃
元気を取り戻せない女が、一度だけはしゃいだ夜があった
その夜は、若い男が帰って来た晩で、町で買って来たお酒も、たっぷり徳利に入っていた
あたしも今夜は頂くからと、出した茶碗を持つ手が白かった
とうとう二人が獣になれる夜になったのに
むしゃぶりついてくる若い男の相手をしながら、不意に女の心の中に体はあの男のもの、という
昔の自分の声が聞こえた、聞いてはならない声が聞こえてしまった
心乱れた女は急に、若い男の猛ったものに手を伸ばして、この手があんたのものなんだよ、と囁いた
それじゃ、俺はいつまでもこのまんまか、と、声音が沈んだ若い男に、女の中で乱れたものが蠢く
今夜はこうしてあげるから、と、布団の中にもぐり込み、男のものを口に含んだ
その有り様に若い男は、驚き、たじろぎ、心震わせ、女の技に高みに達した
それを三回繰り返し、乱れに乱れた夜が明けた
若い男が朝餉を食べて、町に出かけてしまってから、女は静かに自分の心の内を眺め直した
それから、いつものように洗濯をして、物干しの洗濯物の寂しさに気が付き
翌日から若い男が帰る日だけを、数える暮らしが始まった
そんなたまに二人が住む家を、朝日が雨が風が通り過ぎ、枯葉が家の外に溜まる頃、女は風邪を拗らせる
若い男がお店から帰ると、家の中がしんとしている
不安になった男が上に上がって、奥の襖を開けて覗くと、女は布団を被って震えている
額に掌をやると、火のように熱く火照っている
取りあえず水を絞った手ぬぐいを当て、離れた隣家に助けを求め、遠くの医者を呼んで来る
医者の薬が効いたのか、大人しく寝ている女の容体を気にしながら、朝を迎え、お店に出る刻
心配で声を掛けた若い男に、女は、あたしゃ大丈夫だから、お店に行っとくれよ、とか細く返事する
若い男は、こしらえた粥を女の枕元に置いて、俺は行って来るが、少しお暇をもらえるよう
お店の主人に頼むから、しばらく我慢して待っていてくれと、言い置いて家を出る
その夜遅く、若い男がようよう家に戻って来ると、心配していたような物静けさが家を包んでいた
胸は早鐘、足元乱しながら上がり込み、奥の間の襖を開けると、女は布団の上に座って唄を口ずさんでいた
ほっとして、今帰ったよと伝えるも、女は振り返りもせず、ただ、か細く歌を唄うのみ
不安が胸の奥から湧き上がり、男は女の肩を掴んで、揺すりながら、どうしたんだ、と問いかける
ふっと、女の正気が戻って、男の瞳を真直ぐ見据えて、お世話になりました、などと言いながら頭を下げる
なぜかぎょっとして、女の瞳を見返すと、その中に揺れる女の魂が、すぅーっと薄れていくのが見えた
どさっと突っ伏す女の体を掻き抱き、おーいお−い、どうしちまったんだぁーと呼びかけれども
もはや女の魂は抜け果てて、さながら波に揺れる笹舟のよう
そのまま夜が過ぎてゆき、朝のほの白さが部屋の中に忍び込む頃、女はこの世から旅立っていった
気が動転し、虚けのようになった男が、ようやっと周りを見廻せたとき、女の枕元に赤く色づくものと
黄金色に朝の光に輝くものが見えた
二つの櫛が、女の喜びや生きがい、暮らしの輝きを宿したまま、ぽつんと二つ、残されていた
〜紫陽花〜
女を、吾十の墓の隣りに葬り、年が明け、春が来るころ、女の好きだった紫陽花の、まだ小さな苗を植えた
それから若い男は決心して、お店の主人に暇乞いして、三人が住んでいた小さな家を守る暮らしを始めた
毎朝、女の墓のそばに植えた紫陽花の苗に水をやり、女が洗濯物を干していた庭に畑を作って
ちょっとの野菜を育て、大川に出かけて魚を釣り、ときおり傷んだ家の修理をしながら、二十年を過ごした
若かった男が、年上男と同じくらいの齢を重ねたある冬の朝、なんとなく死の迎えが来てくれたことが知れた
弱った足を引きずり、ずきんと刃が刺さるような、腰の痛みを押さえながら、土手を上って大川を眺める
ここにやって来たときと、ちっとも変わらない水の流れに、若かった男は、ほぅーっと息をつき
ぼんやり年上男と女と三人で、火花の変わり様を見つめていた、線香花火の夜に想いを寄せた
男が一人、大川の堤の上で、微笑んだまま死んでいたのを、久しぶりに小さな家を訪ねた隣家の者が見付け
村の皆んながやって来たのは、若かった男が土手を上った日から、三日が経った昼下がりのことだった
若かった男の弔いが済んで、昔住んでいた男と、どうやらその女房だった女と、その後も一人住んでいた男
その三人が、どんな縁だったのか、弔いに集まった人は皆、ひそひそ話したが、良い人だったで話は終わった
それからまた十何年の時が流れたある秋の日、大嵐が村を襲い、大川堤が大きく破れて
辺り一帯が大水に呑まれ、押し流され、村も人々も家も、全部がなんにも無くなって
三人が住んでいた家の名残も、三人の墓も全部が消え去って
それから何年か月日が過ぎた頃、なにか風情のある紫陽花の集落が、後世の人々の目を惹いていた
〜終〜