ぱちっ、と炭が跳ねた
束の間うたた寝してたんだろうか
火鉢の炭がまっ赤になってお登勢の頬が熱くなっている
慌てて灰を火箸で赤くなっている炭に丹念に寄せて
これ以上火が熾らないように加減する
青地に緑がかった大ぶりの八角火鉢は与平が先一昨日持ち込んだもので
火熾し用の十能と火箸も一緒に持って来てくれたし
ご丁寧に灰も五徳もしっかり用意されているという至れり尽くせりに
お登勢は有難がるばかりだった
早速翌日炭を買いにいって高くない方の楢炭にしたものだから
こうして時折炭火が跳ねるということになったのをお登勢は知らなかった
貧しい暮らしだったお登勢と母親の二人暮らしでは火鉢も炭も無縁だったし
父親のいた頃の暮らしは幼すぎて覚えていなかった
冬という季節はひたすら母子で片寄会って忍ぶだけの大嫌いな三ツ月だった
その日は本宅からくすねてきた少しだけの炭を火鉢に入れて
火の熾し方を教えてくれた与平と
よく似た炭火の暖かさは
かざす掌から心の芯にまで染み通る不思議な温もりで
お登勢はあったかだね嬉しいねと心で何度もなんどもつぶやいて
与平の固太りの体に寄り添いながら当てた我が耳奥の強い心の臓の鼓動に
真から男が大事に思えて幸せに浸り切りながら
身も心も解け揺蕩う夜を過ごしたものだ
がらりと戸が開いて
「おお、さぶっ」と言う与平の声が聞こえたとぼんやり気付いたとき
八畳間の襖を開けて部屋に入って来るなり
「くさっ、お登勢、そっちの戸を開けろ!」と大きな声が響いた
慌てたお登勢は少しよろっとしながら立ち上がり小庭の障子を開け雨戸をずらす
「炭の火は変に熾したままにしてると毒気を出して死んじまうことがあるんだ」与平が真顔で言った
じきに部屋の空気が入れ替わり寒くもなったが
それはまた二人で暖まればいい
ひとつ賢くなったお登勢の胸の内に
ずっと先になってすごく辛い日がまた続くようになったら
炭の火でこの世から旅立つのも悪くはないね、という想いの火種が点いた
2021年12月05日
お登勢 その五 火鉢
posted by 熟超K at 14:48| Comment(0)
| 時代小説
2021年11月15日
お登勢 その四 寝床
今夜は与平がやってくる日だ
お登勢は昼間干しておいた日差しの暖かさが残ってる夜具の方をちらっと見てふっと笑みをこぼした
知らずこぼれた笑みに気が付いて一人かぁっと顔が熱くなった
もともと母親と二人で長屋に住んでた頃でも暖かい布団なんてめったに寝たことはなかったが
それでも母親の寝息が聞こえる夜は気が休まって穏やかな夢を見ていた気がする
それが、母親の遺体をまだ棺桶に入れられず並んで寝た夜、その翌日に一人ぼっちで寝た夜
長屋を出て大家が世話してくれた飯屋の二階の物置部屋で一人布団にもぐって涙こぼしてた夜
冷たくって埃の臭いのする布団で寝るのが辛かった
想いもかけず与平の世話になって今の家に住むことになり
ふかふかの客布団で与平の温もりに包まれて大人の女の喜びを知ってからお登勢も幸せが味わえた
なんでもないのにきっちり敷かれた布団の傍を通るたび
つい掛布団の縁を直すのもこの家に住んでからの可愛い癖だった
もう夕餉の支度は八分方出来上がっている
後は汁を温めお燗をつけて釜から移してあるおひつの温かいご飯を与平によそってあげるだけ
与平から勧められればあたしも少しお酒を頂けるかしらと思いつき自分用の杯もそっと用意した
冬の陽はとうに落ち辺りはとっぷり暗さが増して
風で揺すられて玄関の戸ががたっと鳴るとお登勢ははっとして姿勢を直すが
後に続く与平の声がいつまで待っても聞こえないのでまたがくっとうなじが垂れる
隣の八畳間の布団はもう暖か味が残ってないんじゃないか
おひつのご飯も随分冷めてしまったんじゃないか
それにしても今夜の与平は遅いんじゃないか
なにか本宅から出られない用ができたか、ここまで来る途中に誰かに会って長話
それともそれとも…お登勢の頭の中で考えたくないことがぐるぐる渦巻いて息が苦しくなる
そのとき玄関の戸が開いて待ちかねた与平の暖かい声がした
お登勢は急に体に血の気が甦ってしゃんとした返事が胸から飛び出す
「お帰んなさい、あんた」勢い込んで立ち上がったお登勢の背中に寝床は隠れて
おどけた顔で「参った参った」と言い訳してる与平には見えていない続きを読む
お登勢は昼間干しておいた日差しの暖かさが残ってる夜具の方をちらっと見てふっと笑みをこぼした
知らずこぼれた笑みに気が付いて一人かぁっと顔が熱くなった
もともと母親と二人で長屋に住んでた頃でも暖かい布団なんてめったに寝たことはなかったが
それでも母親の寝息が聞こえる夜は気が休まって穏やかな夢を見ていた気がする
それが、母親の遺体をまだ棺桶に入れられず並んで寝た夜、その翌日に一人ぼっちで寝た夜
長屋を出て大家が世話してくれた飯屋の二階の物置部屋で一人布団にもぐって涙こぼしてた夜
冷たくって埃の臭いのする布団で寝るのが辛かった
想いもかけず与平の世話になって今の家に住むことになり
ふかふかの客布団で与平の温もりに包まれて大人の女の喜びを知ってからお登勢も幸せが味わえた
なんでもないのにきっちり敷かれた布団の傍を通るたび
つい掛布団の縁を直すのもこの家に住んでからの可愛い癖だった
もう夕餉の支度は八分方出来上がっている
後は汁を温めお燗をつけて釜から移してあるおひつの温かいご飯を与平によそってあげるだけ
与平から勧められればあたしも少しお酒を頂けるかしらと思いつき自分用の杯もそっと用意した
冬の陽はとうに落ち辺りはとっぷり暗さが増して
風で揺すられて玄関の戸ががたっと鳴るとお登勢ははっとして姿勢を直すが
後に続く与平の声がいつまで待っても聞こえないのでまたがくっとうなじが垂れる
隣の八畳間の布団はもう暖か味が残ってないんじゃないか
おひつのご飯も随分冷めてしまったんじゃないか
それにしても今夜の与平は遅いんじゃないか
なにか本宅から出られない用ができたか、ここまで来る途中に誰かに会って長話
それともそれとも…お登勢の頭の中で考えたくないことがぐるぐる渦巻いて息が苦しくなる
そのとき玄関の戸が開いて待ちかねた与平の暖かい声がした
お登勢は急に体に血の気が甦ってしゃんとした返事が胸から飛び出す
「お帰んなさい、あんた」勢い込んで立ち上がったお登勢の背中に寝床は隠れて
おどけた顔で「参った参った」と言い訳してる与平には見えていない続きを読む
posted by 熟超K at 17:16| Comment(0)
| 時代小説
2021年10月27日
お登勢 その参 木枯らし
ひゅうぅぅぅぅ〜という音が町内を巡っていく
そんな木枯らしの音が嫌いなお登勢だった
冬が間近くなった頃から寝込んでいたおっかさんが
息をしなくなっていたのに気づいたのは丸一日なんにも食べていなくて
とうとうおっかさんを揺すって起こそうとしたときだった
同じ長屋の貧しいみんなに助けられてどうにかお寺に届けを出したものの
二日だけ置いてもらった長屋のひとりぼち
一晩中鳴いていた木枯らしの音が幼いお登勢を脅しているようで
心底心細さを刻み込まれたのはもう二十年も前のこと
それから世間のみんなに助けられたりだまされたりしたけれど
どうにかいっぱし女ひとりで飯屋の常雇で生きていけるようになった頃
まっすぐ自分を見ている与平という男の言葉が心助けに思えるようになった
思いがけずこのしもた屋を見つけてくれて与えてくれた男のなにかが
何度も閨を共にするうちにだんだんぴったり形に合っていったのが
いつしか愛おしく懐かしく心がほどけていく自分に不思議を見つけたお登勢だった
そんな与平は今の女房への気兼ねも忘れず三日に一夜だけの訪れで
あいつにも苦労を掛けたんだから二日はあいつに一夜はお前で勘弁してくれと
律儀に頼む男のそこもお登勢の気性に合っているのだと思う
この家は玄関を入ると左に上がり框がありそこが四畳半の部屋になっている
以前の持ち主は来客などはそこで応対するようにしていたようだが
今は来客などありもせずその奥の台所での煮炊きと一人のときの食事場で
それから襖の向こうが八畳の座敷になっていて与平と一緒の夕餉や寝所に使っている
最初この家に来たときは八畳の座敷がとても広く見えてお登勢は嬉しかった
飾り職人だったお登勢の父親は客から預かった高価な簪を紛失してしまい
雇われていたお店を出されてしまったのが不運の始まりだった
良くない評判の立った職人を雇うお店は無く、うらぶれた長屋に母娘を置いて姿をくらまして
母のおみつはそれでも亭主の戻ることを信じて針内職で糊口をしのいでいたが
そのうち身体を壊して床に就くことが多くなりやがて伏せたままになって死んでしまった
物心がついた頃には母と二人の四畳半一間の長屋暮らしに慣れたお登勢にとって
八畳の座敷はどこに身を置いたら良いのか気に掛けるほどの贅沢な暮らしに思えた
小さいけれど庭のある眺めも心を伸びやかにしてくれたし
与平が月に一度運んで来る暮らしの賄金もお登勢にとっては充分なものだった
ひとつだけ心を脅かすものがあるとすれば与平がこの家に通わなくなることくらいで
こうして冬の気配が身近になり表を通り抜ける木枯らしの音が聞こえると
お登勢の心中に押さえようもない不安が湧き上がり耳を押えたくなって
明日は与平の来る日だがそれまでは慣れた四畳半の一人床で不安を堪え寝てしまおうと
そぞろ夜具を取り出すお登勢だった
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posted by 熟超K at 00:15| Comment(0)
| 時代小説
2021年10月05日
お登勢 その弐 柿の実
風が吹き込んで障子がかたかた鳴った
この間まで暑くて団扇で送る風じゃあ足りなかったというのに
もうじきやってくる木枯らしを思い出して、お登勢は首をすくめた
この三日というもの与平は家にやって来ない
やって来ないから二度の食事は粗末なものになっている
掃除とわずかばかりの洗い物をしてしまうとお登勢はやることがなくなってしまう
なんにもすることがないとお登勢は座敷の奥の方に座って細めに開けた障子の隙間から
僅かばかりの広さの庭を眺めて過ごす
小料理屋で働いていた頃は毎日が忙しくて寝るのだけが楽しみだったが
今は与平がなんにもしなくていいよと言うのでこっちに来ない日はなんにもしていない
前の住み主がご隠居だったらしくて
小ぶりの庭はそれなりに体裁が整っている
と言ってもお登勢にはその良さなんかわかりはせず
ただほ〜っとして見ていられる
一本だけある庭木は柿の木で三つ実が着いている
あれは食べられるんでしょうかと与平に尋ねたことがあるが
そうさなどうだろう渋じゃないのかな甘だったら二人で食べようと話したのが三日前
たった三日で柿の実は随分赤くなってきていて
お登勢は実が落ちてしないかと毎朝毎夕必ず様子を見ている
今夜こそ与平がやって来て二人睦まじく夕餉を頂くのが今のお登勢のただひとつの望み
柿の実は食事が済んで与平が少し酔った頃を見計らって出せばいいか
それとも夕餉の前に切って出そうか
そんなせん無いことばかりぐるぐる頭に浮かんできている
暗くなっても採れるように目見当を付けているが本当に陽が落ちてからでは見つかるか
とうとうお登勢は庭に出て物干し竿で柿の枝をたぐるとした
大きな実がひとつ中ぶりなのをひとつ一番小さな実は枝に残して一仕事終える
つやつやした赤い柿の実を袖で丁寧に磨いて薄茶の平皿に載せ
ゆっくり眺めて甘いか渋いか考える
それもこれも与平が今夜こそやって来るかの大博打
まだ早かったかしら今夜も来れないのかしらと考えているうちに涙が溢れてきた
がたっと音がして玄関の戸が開く音が続く
与平らしい下駄の音にお登勢の中から弾んだ声がほとばしり
帰ったよ、と優しい声が返って来る
台所に立って夕餉の支度を急ぐお登勢の背中にいい柿じゃないかと与平の声が被さって来る
posted by 熟超K at 11:53| Comment(0)
| 時代小説
2021年09月23日
お登勢 その壱 与平
なにか胸騒ぎがして、部屋を見渡すと大分薄暗くなっている
与平を迎えに行こうと、玄関の戸を開けると、外はしんなりと小ぬか雨
着物を濡らしたくないので、与平が買ってくれた蛇の目傘を手にして家を出る
家は与平が手配してくれた二間のしもた屋で、まだ半年も住んではいない
先日で、お登勢は数えの二十七になったばかりの中年増
与平は三十三の男盛りで、親から継いだ小間物屋を繁盛させている商い上手
そうなると、商い仲間の会合でも旦那扱いもされるようになり
悪い遊びの誘いも増えるのが世の習い
与平は実直な性格だったから、博打や女遊びには誘われても、なにかと口実を設けて断っていた
ただ、小間物卸問屋の作蔵が言った「妾を持ってみるとまた商いに張りが出ますよ」という言葉だけは心に残り、いつかは、と心の奥深くに、疼くなにかが宿ることを許していた
丁稚奉公をしていた頃からの馴初めで一緒になったお由にさしたる不満はなかったが、それでも疼く自分の心を、どこか不思議なものに感じていた
きっかけは、仕事の打ち合わせの帰りにたまたま寄った湯島天神で、先行きの吉凶を占う積りで買った富くじが、二番当りの五十両に化けたことにある
幸か不幸か、たった一人で初めて行った湯島天神だったこともあり、誰も知らない大金を手にした与平が、特につぎ込みたい道楽もなく、商売の元手に困っている訳でもなく、さりとて女房に渡したところで面白くもないと、考えあぐねているところに
先年の大火のもらい火で、母屋と息子夫婦に孫二人まで亡くし、失意の底に沈んでいたご隠居が、更地にした母屋の脇にぽつんと残った隠居所まで含めて、かねて目をかけていた与平に、四国巡礼と故郷までの路銀だけで良いよと、五十両で売ってくれた
更地はいずれお店を増やすときにでも使えればよし、後は二間と台所、ちょっとした玄関間のある隠居所だが、その家を眺めて、与平の心に思い付きが浮かんだ
以前、同業仲間の寄り合いで、行ったことのある小料理屋で、気の利いた応対をしていたお登勢の、白い優しい面立ちが心のうわべに甦ったのだ
その場の勢いで小料理屋に立寄り、お登勢に逢った矢先に「わしの情けを受けてくれはすまいか」と、駆け引き忘れて頼み込むと、驚くことに頬赤くして、こくんとうなづいた
お登勢の心に与平が居たのは、先般与平たちが二階の座敷で寄合いの後、お酒の入った宴席となった際、お酌の手元が震えて粗相をしたとき、からむ酔い客を誠上手になだめて収めた、その落ち着きと優しさがずっと心に火を灯していたからだった
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posted by 熟超K at 16:52| Comment(0)
| 時代小説