2022年03月27日

お登勢 その拾 お花見

空が明るくなって風が匂やかな季節に変わっている
お登勢は部屋の掃除を一段落して少し外に出かけましょうかという気になった
この陽気なら隅田の堤に行けば七八分咲きの桜見物ができそうじゃないの
出掛けようかと心に決めたら少し浮き浮きして鏡台の中の自分が若やいだのがわかる

あの人と一緒に行けたらとふと過ぎった想いを胸の裡に仕舞い込みきりっと出支度に取り掛かる
玄関を出て表通りまでは裏道を往く
いろいろなお店の奥座敷やらお蔵やらが並んでいる路地を落ち着いて歩く
どうせ他所の人から見れば囲われものの女が暇に任せて歩いているだけだもの

それでも表通りに出れば見た目もまあまあだと思っているから伏し目にはならない
すれ違う人の何人かは見知った顔で なかにはそっと会釈してくる人もいる
やはり買い物をしたり髪結いに行ったりしてるから少しは世間の付き合いもあるってことなんだわ
そんなことをうらうら想いながら歩くうちにお店も途切れて隅田川の堤が近づいた

遠くから風に乗って賑やかしい音が聞こえてくる
昔はここまでではなかったらしいけど昨今は花見客も大勢で日の高いうちから酒盛り騒ぎ
桜の花がきれいなのを見に行ってるんだかお酒を飲みたくて行くんだかわかりゃしないって
髪結いさんが笑いながら言ってたのも皆承知の介

思いのほか寒い風に着物の裾がはらりとなって赤い顔した若い衆がほうほうと声かけてくる
そんな男どものからかいもまだ明るい日のうちなら悪い気もしない
堤の土手が近づくと見事に咲き誇っている桜の花が艶やかでそぞろ歩きの人たちまで華やいで見える
あちらの車座の花見客は料理もお酒もふんだんに用意している大店の一行に違いない

芸者衆から太鼓持ちまで一緒になって騒がしく踊っている者までいるし周りで囃している者もいる
こっちはおっかさんと付いて歩いてる女の子の二人連れ
なんだかうらやましいやら微笑ましいやら
与平さんと子供の三人で歩いていたってだ〜れも気にかけやしないだろうな

霞みのかかったぼんやり青空の下
お登勢ひとりの花見道中そぞろ歩き
posted by 熟超K at 22:51| Comment(0) | 時代小説

2022年03月06日

お登勢 その九 桃の節句

髪結いの帰り道
町屋通りを急いで歩いているお登勢の目に赤子を背負った町女の姿が目に入る
あっ、可愛いらしいやや子だこと
そのやった眼差しの柔らかくなったところに
にこっと笑った赤子の口の中に白い小さな歯の光がちらと射し込む

お登勢の胸になにかが飛び込んで静かに弾けてかけらが沈んでいった
家に帰り着いて少し落ち着いたところで鏡台の掛け布を上げながら
心の奥底のなにかが動くのを感じて鏡の中の顔と向き合う

歳月が重なっていて顔の輪郭が少しぼやけている
でも与平と会って丸みを増した今の顔は嫌じゃない
そうだよね、とちいさく呟いてから急に心の底から哀しい想いが湧き上がる

赤ちゃん、可愛かったなぁと呟くと泪がふわり目の縁に溢れた
あたしにも赤ちゃんが居ればいいのに、と普段押えていた言葉が唇からこぼれるのが
鏡に見えた

一度与平に訊いたことがあったけど困り顔を見てその先は呑み込んだ
本宅のひとがそれだけはやめておくれと言っていたと
次に寄ってくれたときぼそっと与平がこぼしてからもう言わないと決めていた

今日逢ったあの子は愛嬌のいい女の子だったろう
以前居た小料理屋の主人はおかみさんも子どもも大事にしていて雛飾りがあった
あたしもいつかは飾ってみたいな、と毎年思っていた

思ってはいても、もうこれ以上望めないのは分かっているけれど
体の奥で欲しいな本当に欲しいなと囁く声が止まない
来年の弥生月に桃の節句が祝えるようになったらいいのにと、また呟きがこぼれるお登勢
posted by 熟超K at 14:35| Comment(0) | 時代小説

2022年02月03日

お登勢 その八 うぐいす

「ふぅ」と我が口から出たため息が静かな部屋に転び出る
今日はため息をつくまいと朝日に願掛けしたのにもう十は数えてしまった

お登勢は障子の向こうに春がひっそり訪ね来ていることは知っていたが
なにが春なのさ、と依怙地な己が胸の内に棲んでいてもう三日も障子を開けていなかった

火鉢の火は灰の中でまだ微かにほんのりしているけれど
温かさもっと微かになっている

火箸でゆっくり掻きまわしてやることも億劫で
鉄瓶の湯が随分と冷めてしまっていることも気にならない振りをしている

かさっと音がした
障子の向こうの小庭になにかが動いた気配がしたようで心が瞬間しゃんとなった

『けきょ……ほ〜けきよ』…えっ、うぐいす
こんなに近くでうぐいすの声を聞いたのは初めて

お登勢はまだうぐいすの姿を見たことがなかった
湯島天神様にお参りに行ったとき、おっかさんが「うぐいすが鳴いたよ」って言ったけど
どこでどんな鳥が鳴いているのか分からず母を困らせたことだけは覚えている

『ほぉ〜〜ほけきょっ』今度はすごくはっきりとっても大きな声で鳴いた
お登勢はそぉっと障子に手を掛ける

つ、つつっと障子が動いたところで鳴き声が聞こえなくなった
手を止め息をひそめてじーっと待ってみる

まだ鳴かない、もうどこかに行ってしまったのかも知れない
いいやまだ居て、もうすぐ鳴く…

でもまだ鳴かない、火鉢の火はすっかり消えて部屋がひんやりしてきている
堪え切れずにもう少しもう少し障子をじりじり開けていく

庭のどこに居るのかどの枝に留まっているのか
あっ柿の木の下の雪柳の枝が動いた

あれがうぐいすなの
小さな小さな鳥、地味な薄緑がかった鶯茶色ってあれなのね

もう少しよく見たいと思った心が手元を揺らし
かたっと障子が鳴った途端、ぱぁーっと小鳥が飛び去った

ほぉーっと気が抜け
残念な気持ちとちょっとでも見れたし声も聴けた嬉しさがお登勢の心の中でゆっくり回る

『春雨に〜♪』端唄がお登勢の耳の記憶から浮き上がり
知らずにそれが己が唇からこぼれ出ているのがわかってお登勢はひそっと微笑んだ

今夜、与平さんが来てくれたら唄ってあげようと
お登勢はやっと炭を足す気になれた


posted by 熟超K at 16:41| Comment(0) | 時代小説

2022年01月15日

お登勢 その七 独り正月

年越しと新年を迎える賄金は、与平から充分もらっていた
けれど、新年のお屠蘇とお雑煮おせち料理を、独りで味わっているお登勢
与平が正月に家を出られないのは分かっている
正月三が日は、ここに来にくいのもわかっているのだけれど

でも、七草粥まで独りで食べることになるなんて
お登勢の目から露が滑り出た
それにしても、律儀な与平がまったく姿を見せないのは解せないことではあった

もしや本宅のおかみさんとなにか揉めて来られなくなってしまったのか
そんなもやもやしてるのが正月早々の心持ちなんて、やっぱりわたしは日陰の身なんだと
どうしてもうつむきがちになるお登勢だった

与平が
以前居た小料理屋「〆の屋」に通い始めたのはお登勢目当てなんだよと
おかみに言われてなんとなく気になると、どうやら与平もその気があるような素振りを見せる

最初は小上がり座敷で仲間と飲んでいた与平が
お登勢が粗相をした際にかばってくれたときから後は
料理茶屋を目指し始めた店主が新たに設けた二階座敷に一人で上がるようになり
万事を呑み込んでいるおかみも、お登勢を名指しで上客の相手をさせた

そんなある夜
いつもに増して上機嫌な与平が急にお登勢の手を取り
なんと柔らかできめ細やかな手だろう指先だろうと、言うや小指をやわっと咬んだ
刹那お登勢の背筋に震えが走って力が抜けた不思議が今でも胸に籠っている

その夜のうちに
女と男の秘めごとを分かち合え
お登勢の中のなにかが溶けて
与平に頼る生き方を選ぶことになったのだった

火鉢の炭の赤い輝きを見つめながら
過ぎた日の残像が現れるのを止められないお登勢の耳に
がたっと玄関の戸が動いた音が聞こえた途端
胸の血が熱く身体を巡り始める正月七日の夜のこと
posted by 熟超K at 13:44| Comment(0) | 時代小説

2021年12月31日

お登勢 その六 大晦日

明日は正月というのに、しんとした四畳半の部屋で一人火鉢の火に手をかざしながら
お登勢の心は冷え込んでいた
師走ともなれば与平のお店の商売も大忙しで
今月はまだ二日、それも泊りもせず顔を出したかと思うとじきにそわそわして
本宅に帰ってしまう与平だった

十三日にはこの家もしっかり煤払いして
正月支度のあれやこれやも知っている限りはやり尽くしたつもりではあったが
肝心の与平がとんと顔を出さない
いや出せないのだよと言ってはいたが
それほど商売繁盛で結構じゃあありませんかと皮肉を言った積りが真顔でありがとうと礼を言われる始末

どうにも心がむしゃくしゃ揉めて
与平が置いて行った年越しのおあしを持って
近場の歳の市でしめ縄の買い物ついでに羽子板市を見物に出かけたりもした
いっそ浅草寺にまで足を延ばせばなんでもありそうだが
さすがにそこで散財してしまうほどの度胸もありはしなかった

今日も今日とて行く先決め図の町歩き
大通りに面したお店の店先には葉を茂らせた背高の門松が立てられ
お神酒徳利の口飾りを売り歩く行商人や古いお札を集めて歩く札納めも出ていて
暮れの賑わいがお登勢の心を幾分かは紛らわせてくれた

それでも家に戻れば自分一人きり
掛取りに追われることはなくなったものの
世間の誰にも声も掛けられない自分という者がとても小さく侘しく感じる年の瀬だった
与平からもらった金で賃餅も用意できたし
もし三が日に与平が来てくれたら食べてもらう節も酒も整っている

遠くの表通りで節季候(セキゾロ)の練り歩く音が聞こえている
ふっと年越し蕎麦でも食べてやろと思い立ち火鉢の炭に灰を被せ
家の戸締りをして再び町に出て行くお登勢
明日になれば正月が来る

posted by 熟超K at 21:59| Comment(0) | 時代小説