2022年05月18日

お登勢 その拾壱 おとしさん

あっ、鼻緒が切れた
夕餉の支度の青物屋帰りの途中だった

ざるに一杯の茗荷、新生姜、三つ葉などの瑞々しい野菜を落とさないよう
お登勢が踏ん張った途端、下駄の鼻緒がぶつっと切れたのだ

折悪しくぽつりぽつりと落ちて来ていた雨粒が
本降りに変わり通りを歩いていた人々は我先にと商家の軒先目指して早足になる

お登勢もやっと入り込んだしもた屋の軒先で雨を避けていたが
本降りの雨はますます激しさを増し、篠突く雨の例えも霞む豪雨となった

着れた鼻緒の下駄と青物が盛られたざるを持ったまま呆然と雨脚の弱るのを待つ間
同じ軒先の雨宿り人がお登勢に声をかけて来た

あんた甲州屋さんのお妾さんだね
そう呼ばれてどきっとしたが丸顔のにこやかな顔をした老婆に気付いて警戒心が解けた

お妾さんはいいねえ、暮らしの苦労なんてないんだろ
相変わらずにこにこしながらずけずけ話しかけてくる老婆になぜだかお登勢は笑顔を返せた

あたしもね、昔は羽振りのいい大店の旦那さんに囲ってもらっていたことがあるのさ
思わぬ老婆の打ち明け話にお登勢も聞き耳を立てる

自分の話を聞いてくれる人に久しぶりに逢ったとでも言うように老婆は熱心に話を続ける
あたしだって昔はこんなに皺くちゃじゃぁなくって好い女だって言われてたんだよ

おっかさんが生きてたらこのくらいだったのかな、と思うと自然に優しい笑みがこぼれる
ああ、あんた鼻緒が切れちまってるんだね、困るだろそれじゃあ、おばさんが挿げてあげるよ

言うと、お登勢の手の鼻緒の切れた下駄を受け取り、懐から取り出した端切れを割いて紐を撚る
手際よく挿げ替えた下駄をお登勢に渡すと、どうだい具合は、と訊く

足指の収まり具合を確かめながら礼を言うお登勢に向かって手を横に振りながら、いいよいいよと笑う老婆
ありがとうおばさん、あたし登勢って言います、おばさんのお名前は?

名前なんて、そりゃまあ一応親が付けてくれたのがあるけど…登志、がわたしの名さ
お登志さんですね、あたしと良く似たお名前だこと

そうだねぇ、似てるって言えば、似てるねぇ
あたしの親父が、いつも上に登る志ってもんを持つんだぞって付けてくれたらしいんだけど

そうなんだやっぱりこのおばさんの親も、あたしの父ちゃんと同じようなこと言ってたんだ
死んだおっかさんが、初めて奉公に出るとき同じようなことを言っていたのを思い出したお登勢

勢いよく登れよって、酔っ払っておとっつぁんが言ったんだけどね、っておっかさん泣き笑いだった
あんたも上に登る気があるんだろ、と老婆が真顔で話しかける

ええ、でも、もうそんなこと、考えてないんです
だめだよ、考えとかないと、毎年毎年盆も正月も迎えてるうちに、おばさんみたいに皺が寄ってくるよ

あんたの旦那さんがいつまでもあんたを大事にしてくれるとしても
いつかは世の中もお金回りもご本宅の事情も変わって、一人で算段しないといけない時が来るのさ

おばさんみたいになる前に、旦那さんが好い人でいるうちにね
なにかあんたが本気でやってみたいって思うような、習い事でも始めとくと、きっと先々助かるよ

親身な言い方にお登勢は有難い、と思う気持ちがこみ上げて
分かったわお登志さん、あたしなにか習ってみたいこと探します、と頷きながら老婆の手を握る

気が付くと雨足は弱くなっていて、気の早い連中はもう通りに飛び出して行く
また逢おうねと互いに口に出し、お登志とお登勢は別々の方角に向かって歩き出す

posted by 熟超K at 15:55| Comment(0) | 小説
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