2022年03月06日

お登勢 その九 桃の節句

髪結いの帰り道
町屋通りを急いで歩いているお登勢の目に赤子を背負った町女の姿が目に入る
あっ、可愛いらしいやや子だこと
そのやった眼差しの柔らかくなったところに
にこっと笑った赤子の口の中に白い小さな歯の光がちらと射し込む

お登勢の胸になにかが飛び込んで静かに弾けてかけらが沈んでいった
家に帰り着いて少し落ち着いたところで鏡台の掛け布を上げながら
心の奥底のなにかが動くのを感じて鏡の中の顔と向き合う

歳月が重なっていて顔の輪郭が少しぼやけている
でも与平と会って丸みを増した今の顔は嫌じゃない
そうだよね、とちいさく呟いてから急に心の底から哀しい想いが湧き上がる

赤ちゃん、可愛かったなぁと呟くと泪がふわり目の縁に溢れた
あたしにも赤ちゃんが居ればいいのに、と普段押えていた言葉が唇からこぼれるのが
鏡に見えた

一度与平に訊いたことがあったけど困り顔を見てその先は呑み込んだ
本宅のひとがそれだけはやめておくれと言っていたと
次に寄ってくれたときぼそっと与平がこぼしてからもう言わないと決めていた

今日逢ったあの子は愛嬌のいい女の子だったろう
以前居た小料理屋の主人はおかみさんも子どもも大事にしていて雛飾りがあった
あたしもいつかは飾ってみたいな、と毎年思っていた

思ってはいても、もうこれ以上望めないのは分かっているけれど
体の奥で欲しいな本当に欲しいなと囁く声が止まない
来年の弥生月に桃の節句が祝えるようになったらいいのにと、また呟きがこぼれるお登勢
posted by 熟超K at 14:35| Comment(0) | 時代小説
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