2022年02月03日

お登勢 その八 うぐいす

「ふぅ」と我が口から出たため息が静かな部屋に転び出る
今日はため息をつくまいと朝日に願掛けしたのにもう十は数えてしまった

お登勢は障子の向こうに春がひっそり訪ね来ていることは知っていたが
なにが春なのさ、と依怙地な己が胸の内に棲んでいてもう三日も障子を開けていなかった

火鉢の火は灰の中でまだ微かにほんのりしているけれど
温かさもっと微かになっている

火箸でゆっくり掻きまわしてやることも億劫で
鉄瓶の湯が随分と冷めてしまっていることも気にならない振りをしている

かさっと音がした
障子の向こうの小庭になにかが動いた気配がしたようで心が瞬間しゃんとなった

『けきょ……ほ〜けきよ』…えっ、うぐいす
こんなに近くでうぐいすの声を聞いたのは初めて

お登勢はまだうぐいすの姿を見たことがなかった
湯島天神様にお参りに行ったとき、おっかさんが「うぐいすが鳴いたよ」って言ったけど
どこでどんな鳥が鳴いているのか分からず母を困らせたことだけは覚えている

『ほぉ〜〜ほけきょっ』今度はすごくはっきりとっても大きな声で鳴いた
お登勢はそぉっと障子に手を掛ける

つ、つつっと障子が動いたところで鳴き声が聞こえなくなった
手を止め息をひそめてじーっと待ってみる

まだ鳴かない、もうどこかに行ってしまったのかも知れない
いいやまだ居て、もうすぐ鳴く…

でもまだ鳴かない、火鉢の火はすっかり消えて部屋がひんやりしてきている
堪え切れずにもう少しもう少し障子をじりじり開けていく

庭のどこに居るのかどの枝に留まっているのか
あっ柿の木の下の雪柳の枝が動いた

あれがうぐいすなの
小さな小さな鳥、地味な薄緑がかった鶯茶色ってあれなのね

もう少しよく見たいと思った心が手元を揺らし
かたっと障子が鳴った途端、ぱぁーっと小鳥が飛び去った

ほぉーっと気が抜け
残念な気持ちとちょっとでも見れたし声も聴けた嬉しさがお登勢の心の中でゆっくり回る

『春雨に〜♪』端唄がお登勢の耳の記憶から浮き上がり
知らずにそれが己が唇からこぼれ出ているのがわかってお登勢はひそっと微笑んだ

今夜、与平さんが来てくれたら唄ってあげようと
お登勢はやっと炭を足す気になれた


posted by 熟超K at 16:41| Comment(0) | 小説
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