2023年03月30日

お登勢 その弐拾壱 弥生春霞

部屋の隅に吊るしてある綿入れを見て
そろそろ袷の用意をしなきゃとお登勢はぼんやり想っている
今年はとうとう花見に出掛けなかった
与平はますます商売が忙しくなって今月は数えるほどしかこの家に来ていなかった
本宅のおかみさんもやっぱり相手をしてもらえてなくて
このところいらいらが激しくてお店の番頭さんから小僧さん女中さんまで大変なんだと
八百屋のおかみさんがわざわざ教えてくれた

それはあたしがよく買い物するから贔屓にして教えてくれてるのか
それともあたしがどんな生業かわかった上で面白がってるのか
どっちなんだろっておとしさんに訊いたら
八百屋のおかみさんも亭主とよく喧嘩してるくらいだから
面白四分に贔屓六分なんじゃないのって笑ってた
男が居れば煩いし居なきゃ居ないでなんか寂しいんだねって言ったおとしさん真顔だった

そんなこと思い出しながらどうせ今夜も与平は来ないだろうと
思ってる自分に嫌気が差して
お登勢は夕餉の支度までまだ間があるから
くさくさしてたって仕方ないわとちょっと表に出る気になった

吾妻橋に向かって歩くと人の出、賑わいが増して
花見気分に少しずつ心が染まり隅田川まで足を伸ばしたくなる
土手の桜並木がぼんやり見え始め
ああこれが春霞というものなんだわとお登勢はひとり腑に落ちる
なんだか夢の中を歩いてるみたいな心地に足を任せて歩くうち
どんと人にぶつかってしまう

すみませんと謝るお登勢におや桜の化身にぶつかったか
と大きな笑顔で声掛けたのはいつぞや初午の人ごみでぶつかった
恰幅の良い大店のご主人その人だった
posted by 熟超K at 20:48| Comment(0) | 時代小説