部屋の隅に吊るしてある綿入れを見て
そろそろ袷の用意をしなきゃとお登勢はぼんやり想っている
今年はとうとう花見に出掛けなかった
与平はますます商売が忙しくなって今月は数えるほどしかこの家に来ていなかった
本宅のおかみさんもやっぱり相手をしてもらえてなくて
このところいらいらが激しくてお店の番頭さんから小僧さん女中さんまで大変なんだと
八百屋のおかみさんがわざわざ教えてくれた
それはあたしがよく買い物するから贔屓にして教えてくれてるのか
それともあたしがどんな生業かわかった上で面白がってるのか
どっちなんだろっておとしさんに訊いたら
八百屋のおかみさんも亭主とよく喧嘩してるくらいだから
面白四分に贔屓六分なんじゃないのって笑ってた
男が居れば煩いし居なきゃ居ないでなんか寂しいんだねって言ったおとしさん真顔だった
そんなこと思い出しながらどうせ今夜も与平は来ないだろうと
思ってる自分に嫌気が差して
お登勢は夕餉の支度までまだ間があるから
くさくさしてたって仕方ないわとちょっと表に出る気になった
吾妻橋に向かって歩くと人の出、賑わいが増して
花見気分に少しずつ心が染まり隅田川まで足を伸ばしたくなる
土手の桜並木がぼんやり見え始め
ああこれが春霞というものなんだわとお登勢はひとり腑に落ちる
なんだか夢の中を歩いてるみたいな心地に足を任せて歩くうち
どんと人にぶつかってしまう
すみませんと謝るお登勢におや桜の化身にぶつかったか
と大きな笑顔で声掛けたのはいつぞや初午の人ごみでぶつかった
恰幅の良い大店のご主人その人だった
2023年03月30日
お登勢 その弐拾壱 弥生春霞
posted by 熟超K at 20:48| Comment(0)
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