師走初めの昼下がり
強い空っ風に舞い上がる砂埃を
頭に被っている手ぬぐいの端で防ぎながら
お登勢は今の与平との棲家を譲ってくれたご隠居
弥左衛門の住まう長屋に向かって急ぎ足で歩いている
建てつけの悪い障子戸を開けるこつも
最近は手が覚えていて
ちょっと上に持ち上げるようにしながら上手く開けたお登勢の目に
古びた布団にくるまってあっちを向いて寝ているご隠居の姿が飛び込んできた
「弥左衛門さん、もう八(ヤツ)の鐘が鳴りますよ。どうかなさったんですか?」と問うお登勢に
ごほん、ごほんごほんと年寄りの咳音が返事する
「あらあら、いけませんねぇ、お風邪ですか」と問いかけるもあちらを向いたまま返事がない
「上がらせてもらいますよ」と声を掛け、手早に袷羽織の埃を軽く払って畳み持って来た風呂敷包みと一緒に上り口に置き履物を脱いで寝ている弥右衛門の傍に行く
「どれお熱は」と言っておいて弥右衛門のおでこを探ると熱さが伝わってくる
お登勢は急にしゃんとした気分になってすくっと立ちあがると「まずおでこを冷やさないと」と呟くと
土間に降り、干してあった手ぬぐいを小盥(コタライ)に入れ
水瓶から移した冷や水を浸してぎゅっと絞るといそいそと弥左衛門の傍に行って額にあてる
それからちょっと布団の中に手を入れて汗のかき具合を確かめ「まだ濡れてないわ」と頷くと
また立ち上がってくどに薪を入れて火打ちと火吹き竹で手際よく火を起こし中鍋に湯を沸かす
湯が沸くと柄杓(ヒシャク)で掬った湯をおひつに残っていたご飯を別の小鍋に移したところに注いで
中鍋と入れ替えて米粥を作り始める
粥が煮えたところで弥左衛門に声を掛け壺に入っていた梅干しを添えて「さあこれ食べて」と促す
年寄りの気持ちが落ち着いた様子を見て「弥左衛門さんお薬は?」と訊き無いとわかると
与平がくれた今夜の夕餉代を確かめ「あたしちょっとお薬屋さんに行って来ます」と言うなり
袷羽織りを羽織って返事も聞かずに表に出る
橋のたもとの薬問屋で風邪に効くと評判の和中散(ワチュウサン)を買い求め
長屋に戻ると少し元気の出た弥左衛門が「お登勢さんすまねえ」と礼を言う
「いいんですよ風邪は万病の本って言うから今夜はこのお薬飲んで温かくして寝てくださいな」
そう言うと「あれもうこんなにお天道さまが薄くなって。今日は帰りますけどまた明日寄りますから」
と言い置いて帰りかけ「いやだ与平さんの頼まれもの忘れちゃって」とまた弥左衛門の枕元に座って
「今年もお世話になりました」と言うと風呂敷包みから歳暮の鰹節を取出し花のように笑った
2022年12月10日
お登勢 その壱拾八 弥左衛門さん
posted by 熟超K at 16:16| Comment(0)
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