2022年07月28日

お登勢 その拾参 蚊帳の広さ

あ、蚊に刺された
ぴしゃっと叩いた左の手の甲がぷつっと紅くなっている

蚊やりを焚かなくっちゃあ、とお登勢の独り言
そこへがらがらっと威勢よく玄関の引き戸が開く音

まだ陽もあるのに与平が笑顔で入って来た
お登勢は部屋が片付いてないやら嬉しいやらでどぎまぎしながらも笑顔になる

お登勢、蚊帳を買ってきましたよ
勢い込んで話す与平の額に汗の粒が吹き出し流れている

蚊やりなんか煙いだけでちっとも効きゃあしないから
今夜からこれに入れば蚊知らずでぐっすり寝られるってもんだよ

与平が持ってきた風呂敷を広げると
今、江戸で流行の緑に染められた麻の蚊帳が出て来た

子どもの時分のどぶ板長屋じゃもちろん
小料理屋の女中部屋でも蚊帳なんてお目にかかったことが無かったから

お登勢はなんだかとっても嬉しくって
自分が相好を崩して笑っているのは分かっていても

どうにも笑顔が止らない
与平が八畳の部屋の八方に鍵になった釘をとんとんやっているのを飽きずに眺めている

やがて部屋の四隅とその間の計八箇所に打たれた鍵釘に
蚊帳から出ている紐の先に付いている真鍮の輪を引っ掛けていくと

八畳間の真中に緑色の四角な小部屋が現れた
こうして裾を持ってふくっておいてさっと入るんだよと教えながら与平が入る

そのまねをしてお登勢も中に入ると辺りは緑色に染まり
先に入っていた与平と正真正銘の二人っ切りの世界にお登勢は居る

嬉しさが溢れ出して思わず涙が出たお登勢に与平が
さあ一度本宅に戻ってまた今夜来るから中に布団も敷いておいておくれと言う

なんだこのままこっちに居るのじゃないのかとふっと思いはしたけれど
そんな贅沢言っちゃあ神様に叱られると思い直して笑顔を戻す

お夕飯は用意しとけばいいのねと尋ねれば
あっちで食べて来るからお前は先に済ませて構わないよと言う

与平があちらに戻ってしばらくはなにも出来ずに半刻も過ぎ
やっと四畳半の部屋を片付け焼いた目刺しとお香こで夕餉を済ませ

とっぷり暮れた夜の座敷に
緑色して浮かんでいる四角な世界をしばらく眺め

とにかく敷いた布団を中に引き入れ終えて
まだ来ぬ与平を想いつつ布団に横になると蚊帳の広さが心に染みる
posted by 熟超K at 16:55| Comment(0) | 時代小説

2022年07月05日

お登勢 その拾弐 蛇の目傘

雨音が強くなってきた
入梅からもう廿日は経っているのに

たまに晴れ間があってもまだまだ雨降りが多い
綺麗好きな与平のために拭き掃除はよくしているけれど

畳も板の間も壁も皆じめっとして
どうにも気持ちが悪いからお登勢はこの梅雨という季節が大嫌いだ

今日だって寝起きの身体は汗ばんでいるし
湯屋に行ったって帰りが雨だったら浴衣も濡れる足元も汚れちまう

おまけにこれからどうしても使いに出かけなければならない自分がうらめしかった
それでも昔に比べれば与平が渡してくれるお足でいろいろ買い整えてあるから

足駄を履いて番傘を差して浴衣を羽織ればそんなに濡れずに済むはず
なんとか気を取り直して出支度して外に出る

ざぁーっと降っててばらばらばらばらっと番傘を叩く雨粒
家の中で思っていたより風も強い

それでもどうにか気を取り直し番傘を強く握って雨が顔に当らぬよう前に倒して
ぬかるんだ道を足元を気にしながらせっせと歩く

行先はお登勢の住んでいるあの家を与平に譲ってくれたご隠居さんの住む長屋
足りない分をいいよと言って与平に譲ってくれたお年寄りが亡くなるまで看る約束のお金

こればっかりは忘れる訳にはいかないけど用事がと言う与平に今回はあたしが行かせて頂きますと
自ら買って出たお役目だから雨が降っても槍が降っても今日行く理由

訪ねた先で不自由しているご隠居さんの暮らしを見かね
あれやこれやをやっていたら思いがけず夜になり

すまないねと繰り返し礼を言うお年寄りを優しく寝かせ
急いで戻ってくると思いがけず我家に灯が見え

玄関を入ると立てかけられた蛇の目傘が雫を垂らしている
与平さんとかけた声にご苦労さんと返る嬉しい声

今日はご苦労だったねと優しい労いに
一度に晴れたお登勢の気持ち

これからは重い番傘の代りに私の持ってきた蛇の目傘をお使いなさい
そんな気遣いに弾む気持ちで遅い夕餉の支度を始めるお登勢の幸せ
posted by 熟超K at 15:29| Comment(0) | 時代小説