なにか胸騒ぎがして、部屋を見渡すと大分薄暗くなっている
与平を迎えに行こうと、玄関の戸を開けると、外はしんなりと小ぬか雨
着物を濡らしたくないので、与平が買ってくれた蛇の目傘を手にして家を出る
家は与平が手配してくれた二間のしもた屋で、まだ半年も住んではいない
先日で、お登勢は数えの二十七になったばかりの中年増
与平は三十三の男盛りで、親から継いだ小間物屋を繁盛させている商い上手
そうなると、商い仲間の会合でも旦那扱いもされるようになり
悪い遊びの誘いも増えるのが世の習い
与平は実直な性格だったから、博打や女遊びには誘われても、なにかと口実を設けて断っていた
ただ、小間物卸問屋の作蔵が言った「妾を持ってみるとまた商いに張りが出ますよ」という言葉だけは心に残り、いつかは、と心の奥深くに、疼くなにかが宿ることを許していた
丁稚奉公をしていた頃からの馴初めで一緒になったお由にさしたる不満はなかったが、それでも疼く自分の心を、どこか不思議なものに感じていた
きっかけは、仕事の打ち合わせの帰りにたまたま寄った湯島天神で、先行きの吉凶を占う積りで買った富くじが、二番当りの五十両に化けたことにある
幸か不幸か、たった一人で初めて行った湯島天神だったこともあり、誰も知らない大金を手にした与平が、特につぎ込みたい道楽もなく、商売の元手に困っている訳でもなく、さりとて女房に渡したところで面白くもないと、考えあぐねているところに
先年の大火のもらい火で、母屋と息子夫婦に孫二人まで亡くし、失意の底に沈んでいたご隠居が、更地にした母屋の脇にぽつんと残った隠居所まで含めて、かねて目をかけていた与平に、四国巡礼と故郷までの路銀だけで良いよと、五十両で売ってくれた
更地はいずれお店を増やすときにでも使えればよし、後は二間と台所、ちょっとした玄関間のある隠居所だが、その家を眺めて、与平の心に思い付きが浮かんだ
以前、同業仲間の寄り合いで、行ったことのある小料理屋で、気の利いた応対をしていたお登勢の、白い優しい面立ちが心のうわべに甦ったのだ
その場の勢いで小料理屋に立寄り、お登勢に逢った矢先に「わしの情けを受けてくれはすまいか」と、駆け引き忘れて頼み込むと、驚くことに頬赤くして、こくんとうなづいた
お登勢の心に与平が居たのは、先般与平たちが二階の座敷で寄合いの後、お酒の入った宴席となった際、お酌の手元が震えて粗相をしたとき、からむ酔い客を誠上手になだめて収めた、その落ち着きと優しさがずっと心に火を灯していたからだった
続きを読む